アンモニアの合成

アンモニアの成分元素(窒素、水素)からの合成

     Fritz Haber について 

       

                         田丸謙二



  まえがき: 「アンモニアの成分元素(窒素、水素)からの合
成』 これは Fritz Haber が1918年にノーベル化学賞を受賞し
たおりの表題である。このノーベル賞は前世紀での数多くのノ
ーベル賞の中でも最も大きな画期的改革を化学産業にもたら
し、人類の何十億人もを飢餓から救いだしたものとして歴史に
残っているものである。それだけにこの仕事については、この
一世紀余りの間に、ごく近年も含め、実に多くの紹介解説記事
が出されている。今回はそれらの単なる「解説」をするだけで
はなく、当時の革新的に「卓越した研究」が生まれる背景に「卓
越した人の如何なる才能」がどのように働いたものであるかに
も触れながらまとめてみたい。

  窒素と水素とからアンモニアを作る反応は前世紀の初め頃
超一流の化学者をはじめとして数多くの化学者が取り組んで
も解決できなかった人類の将来に関する大きな問題であった。
それを Haber が乗り越えて解決したと言ってもそれが何故当
時それ程困難であったのか、その頃としてどれほど卓越した研
究であったのかという歴史的な話は、Fritz Haberの人柄も含め
て、その時代の状態を認識する本当の知識なしには正しく理
解することは難しい。殊に百年以上前の前世紀の初めの頃の
化学反応の物理化学的理解や触媒作用の知識のレベルの理
解なしに「卓越した研究」がどのようにして誕生したかを分かり
易く説明しようとしても、容易なことではない。解決された問題
は一般にドンドンあとに残されて、忘れられて行くものであるか
らである。現在の科学のレベルを築いた偉大な先人達の卓越
した研究についても、またこれから解決しなければいけない問
題の解決についても共通した基本があることを認識した上で
読んで頂きたいからである。

 

 飢餓の訪れと窒素固定:今から二百年以上前に既にMalthus
が言っているが、人類の人口は等比級数的に増えて行くが食
糧は等差級数的に増えるだけであるから人類の将来にはい
ずれ食料の不足が訪れる運命にあるという。1840年にLiebig
は食糧の増産には肥料、その中でも窒素肥料が不可欠である
ことを指摘している。窒素を含む肥料は自然界にあるだけで
は当然不足する。石炭の乾留の際に得られる硫酸アンモニウ
ムも少しはあったが、主な資源は雨の少ない南米のチリー地
域で掘り出される「チリー硝石(主に硝酸ナトリウム)」がある。
しかしこれは水にも溶け易く限られた量でしかないので、枯渇
することは時間の問題として目に見えている。このことに関連
してよく引用される有名な演説がある。それは British 
Association for the Advancement of Science の会長である 
Sir William Crookes が1898年の9月になされた演説である。
Sir William Crookes は世界の各国の農業事情、当時の人類の
人口の増加速度、小麦の生産面積など、殊に肥料としての窒
素資源の枯渇などについての調査に基づいて次のように警告
をしている。『英国やその他の全ての文明国は将来食糧が十
分でなくなってしまうという致命的な危機に直面しているので
ある。我々だけでなく我々の子供たち、孫たちなどのためには
このような困難が訪れる時期をできるだけ先に延ばすよう、そ
して心配なしに暮らせるためには化学者たちが空気中の窒素
を固定するように独創力を発揮してくれないといけないのだ』と
いうのである。要するに『fixation of atmospheric nitrogen is 
one of the great discoveries awaiting the ingenuity of 
chemists』というわけである。一方では1901年にノーベル財団
が始まったように、火薬に使う窒素の量も増え、農業用の肥料
以外にも窒素の必要性は高まる一方であった。1900年にも
Leipzig大学のWilliam Ostwald(1909年に触媒作用に関する研
究および化学平衡と反応速度に関する研究でノーベル化学賞
を受賞)も大気中の窒素固定の必要性を強調している。  

  

 勿論当時でも空気中の窒素を固定する方法が全くなかった
わけではない。Crookes卿の時代にFrankとCaroが炭化カルシ
ウムを窒素中で反応させて直接肥料に用いる方法があった。
 CaO + 3C = CaC2 + CO (2300K): CaC2 + N2 = CaCN2 + C 
(1500K): CaCN2 + 3H2O = 3NH3 + CaCO3 つまり、加熱して
シアナミド化合物を作りそれを直接肥料として用いるのであ
る。勿論大変な手間をかけてのことである。一方では
「Birkeland-Eydeの方法」という空気中で放電して窒素の酸化
物を作る方法がある。この方法はHaberも一時真面目に取り組
んでいたし、ドイツのBASF (Badische Anilin und Soda Fabrik) 
会社も研究をしていたが、電力の消費に比べて窒素の酸化物
の生成量が如何にも少なく、高価な窒素源になってしまうので
ある。



窒素と水素とからアンモニアを作る試み:言うまでもなく、窒素
と水素とから直接アンモニアを作ろうという試みは多くの研究
者によってなされていた。アンモニアが出来ればそれを酸化し
て硝酸にすることは既に知られていたからである。しかし水素
はともかくとして窒素が如何にも反応性が乏しいので、それで
は反応速度を上げれば、ということで高温にすると、アンモニ
アはでき難くなる。水素化の優れた触媒として白金やニッケル
を使ってもアンモニア生成には向いていなかった。例えば前述
のF.W.Ostwaldはアンモニアの分解反応に優れた活性をもつも
のは逆反応の合成についてもいいはずであるという発想で実
験をし、鉄触媒を用いて窒素と水素とからアンモニアが作れる
ということで特許を取ったが、BASFの若い技術者 C.Boschが
綿密に追試したところ、触媒の鉄に窒化物が出来ていてアン
モニアが出来たような結果を得たと言って否定されている。ま
た英国のW.Ramsay (1904年に空気中の希ガス類諸元素の発
見と周期律におけるその位置の発見でノーベル化学賞を受
賞)も鉄触媒を用いてアンモニアを分解させたところ、常に微
量のアンモニアが分解せずに残ったというので、逆反応の窒
素と水素の混合気体を流したがアンモニアは見つからなかっ
たという。Le Chatelierは窒素と水素とからアンモニアを作るに
は高圧がよいというので試みたが爆発事故を起こして止めて
いる。

  

Haberについて:このようにノーベル賞級の有名人は言うまでも
なく沢山の研究者が窒素と水素とからアンモニアを作ることに
力を尽くしていたのであるがこれらの努力を乗り越えてHaber
がノーベル賞を受ける成功を収めたのは1909年の7月であっ
た。それまでの数年間の経過について述べる前にここでHaber
個人について紹介をしてみることにする。   

  Haberは1868年12月9日にBreslau で裕福なユダヤ人の家
で生まれている。これは日本で言えば徳川時代が終わって明
治政府が出来た頃に当たる。彼は化学的活動を有機化学者と
して始めている。彼はBerlin でA.W.Hofman の下で、
Heidelberg に行ってBunsen の下で、Charlottenburg 高等工業
で Liebermann のもとで学び、Berlinで 有機化学で博士号を得
ている。その後Jenaで Ludwig Knorr の下で diacetonsuccinic 
ester に関して比較的古い人たちの興味に従った仕事を連名
で出している。しかしながら化学構造を明らかにしたり合成反
応を学ぶという当時の大半の有機化学の分野では彼の化学
的 imagination を満足させることはできなかった。彼の主な興
味は何時も自然界の複雑さと神秘性の中にあった。彼の意見
によると有機化学者たちのやり方は彼が真に望む神秘的な物
質の問題に充分深く切り込めないというものであった。つまり
彼にとってあまりにも特殊的であったのである。それよりも当
時の化学の分野では van't Hoff や Arrheniusや Nernst たちが
開発した化学的問題を解明する新しい物理化学的方法として 
極めて素晴らしく、実りがあり、画期的なものであったのであ
る。



  1894年にHaberは Karlsruhe の化学工学の教授の Hans 
Bunte から助手の席を提供されている。その地位は彼に自由
に責任を持って研究が出来る分野であるというので彼はその
地位についているが、彼はある時言っていたことは義務が全く
ない地位には魅力がなく、彼自身が有用であり仲間ともよく協
力しながらやって行くのが望ましいというのである。

  Karlsruhe では彼が最も興味を持ちだした物理化学の分野
はまだそれほど存在しなかったので彼なりに自分で独力で学
び身に着けて行った。 Bunteの分野は気体の燃焼の化学であ
った。Carl Engler もそこにいて自動酸化について興味を持って
いた。HaberがKarlsruheで接したこれらの問題は彼の後年にも
戻って気体の燃焼や自動酸化について興味を示している。

  彼が助手の地位について以来2年にして Experimental 
studies of the decomposition and combustion of hydrocarbon 
という題でHabilitation essay(教授資格認定) を書き上げ 
Privatdozent (私講師) の資格を得ている。この問題は現在に
おいては当然重要な問題として認識されている分野である
が、当時ではそのような認識は乏しく、この論文は Haberがこ
の分野を重要な分野として初めて指摘し、まとめたものであっ
たのである。それに続く二年間で彼は Technische 
Elektrochemie という教科書を書いている。これは彼が 
Technische Hochschule (後の工科大学)での講義に基づいて
いる。この本はその前文にも書かれているが、当時の最新の
研究と実際の工業的問題の接点を初めてまとめた本であり、
彼の全生涯を通じて展開された問題の基本にもなっている。
同じ年に彼は Bunsengesellschaft の学会で電気的還元につ
いての実験結果を報告している。このように彼はその頃も猛烈
に自分一人で勉強をしてその分野を身につけるだけでなく、当
時なかった新しい概念を展開し、それに基づいて新しい開発
的な分野にまとめ上げている。



  Haberは電気化学に関する興味から気体の2つの問題に移
って行った。一つは炎の中での気体の燃焼の仕方の解明であ
り、もう一つは空気中の窒素の固定である。Haberはブンゼン
炎の中での化学反応の機構の解明を進め、如何にして気体
燃料が燃えて行くかに関する基礎的な研究をしている。彼は
炎の中の気体分析を通して内部では水性ガス反応が熱力学
的に平衡に達していることを証明し、その温度もはっきりとさせ
ている。炎の外部でも水性ガスが燃焼していてその温度も直
接的に解明している。

Haberは1903年から1904年にかけて窒素と水素からアンモニ
アを作る反応についてOordtとその平衡定数を調べている。そ
れまでは窒素と水素側からアンモニアが出来ないかという試
みがもっぱら一般的であったが、ハーバーは歴史的にもこの
反応の平衡定数に向けての初めての挑戦であり、そのために
アンモニアの合成と分解の両方からの速度を調べている。こ
のようにこの反応の平衡の位置を一方的に合成側から調べる
試みというだけでなくアンモニアの合成と分解の両方から平衡
の位置を調べるやり方はHaberの高い見識に基づいた独創的
で重要な点でもある。Haberたちは勿論高圧の方がアンモニア
ができる量も大きいことは知っていたが、合成と分解の両方か
らの反応を調べるには常圧の方がやり易いし、アンモニアの
量が少なくても充分分析が可能であることを知っていたから常
圧で行ったのである。摂氏1020度で鉄触媒を用いて行った結
果はアンモニアの平衡生成量は1万分の1程度で、その後 Le 
Rossignolとの正確な実験でもその値がほぼ正しいものとされ


 

HaberとNernst: しかし一方で W.H.Nernst(1920年に熱化学の
業績でノーベル化学賞を受賞)は彼の「熱定理」の研究から多
くの化学反応の平衡定数が理論と実験とが比較的によく一致
することが分かった。しかし、このアンモニア合成の平衡定数
を求めてみると、Haberの常圧でした報告値よりも小さいので
高圧装置を用いて窒素と水素とからアンモニアの生成量を実
測してみたのである。助手の F.Jostがオ―トクレイブを用いて
高圧(30〜75気圧)で1000K〜1300Kの温度範囲で実験をした
ところむしろ彼の理論値と比較的によく合うがHaberが常圧でし
た報告値よりも一段と小さいので、1907年のブンゼン学会で
Haberの求めた平衡は常圧でやったのでアンモニアの生成量
があまりにも少なく不正確なのだと主張をした。Nernstは結論
として窒素と水素とからアンモニアを工業的に作ろうとするなど
言うことは到底不可能なことであるとして聴衆も納得したとい
う。(Nernst は彼なりに産業界の人の意見も問い合わせてその
結論を得ていた)然しそれはアンモニアの合成側からだけの
実験であって本当の平衡の位置を調べたことにもならなかった
し実験的にも幾つかの疑問点も残されていた。Haberは 
Karlsruheに戻って30気圧の高圧実験に取り掛かり、彼らがそ
の前にアンモニアの合成と分解反応から常圧で求めて報告し
た実験結果が間違いでないことも確かめている。しかし、窒素
と水素とからアンモニアを作る反応はそれまで幾人もの人が
やってもうまく行っていないし、当時1000Kより低い温度で働く
触媒がない限り 余りに望みがなさそうであってもどうにか出来
ないかというので、Haberの研究室でいろいろと触媒探しに励
み、幸いに Berlinの Auer社から各種の化合物を得て、探した
結果オスミウムが摂氏550度辺でも働く優れた触媒になること
が見出された。 Karlsruhe での工作室も優れ、鋼鉄のオ―トク
レイブで200気圧にまで上げることもできたので、窒素と水素の
化学量論的組成の混合気体を循環させてその途中でアンモニ
アを集める工夫に到達したのである。この循環方式は一方的
に反応気体を流すよりも、触媒毒を避けるためにも好適で格
段に優れていた。1908年になってこの新しい実験装置でのア
ンモニアの合成実験が始められた。これもHaberの執拗なチャ
レンジングな精神のお蔭であると同時にその頃のドイツの産
学協同の実績が実験装置製作の上でも大きく役立っていたの
である。



Haber法の開発: HaberはBASFと話し合って1909年7月2日に
BoschとMittaschの若い二人の技術者が Karlsruheの Haberの
研究室にやってきた。触媒はオスミニウム98グラム、820K、約
180気圧で実験が行われた。実験装置の故障で最初は手間取
りBoschは所用で中座したが、実験は見事に成功し、Mittasch
も大変に感激したという。これがいわゆる「ハーバー法」の黎
明である。世に言う「空気からパンを作った」画期的な発見で
あり、1918年にノーベル化学賞を受けている。アメリカの 
Princeton大学の触媒の泰斗の Sir Hugh TaylorはHaberの研
究室を訪れているが、彼によるとHaberが他の多くの超一流の
化学者が出来なかったのを乗り越えてアンモニア合成に成功
させたのは彼の下に Le Rossignol や田丸節郎のような優れた
実験家がいたためである、という。またAuerが書いた書籍にも
Nernstが「Haberの成功は田丸の貢献があったからだろう」と言
っていたという記述もある。田丸節郎は1908年2月からHaberの
研究室でアンモニアの合成の化学に携わり、「死ぬほど働い
て」その合成反応を進めていたが、Haberがその後 Berlinに移
った時も招かれて一緒に移り、第一次世界大戦で日独が敵対
するまで合計6年の間 Haberの協力者として働いていた。

  Haberの成功が誰のお蔭かはともかくとして、アンモニアの
合成については Haberとは紙一重で結構その近くに幾人かが
いたことは否定するまでもない。高圧で平衡を初めて測定しよ
うとした Nernstもその一人である。Ostwaldは早くから窒素と水
素とからアンモニアを作るには高圧で出来るだけ低温で行くよ
う優れた触媒を用いればいいのだと初めから提唱していたと
述べてもいる。確かにこの反応は副反応もなく、原理的に結果
としては物理化学的発想を先取りしてHaberがやり遂げたとい
う意味で彼の才覚は高く評価しなければいけないことは明らか
であるし結果としては彼の名前だけが歴史に残ったことになっ
ている。彼が若いころから独自に学んでそれぞれの分野での
新しい見地を基に幾冊かの時代を先取りした書物を書いてい
るが、それだけ全体的に大きな時代の流れを先取りする彼の
独創的な深い考え方が、平衡の位置を初めて決めるという基
本的な考え方、合成、分解の両方から決めるやり方などHaber
の深い基本的な直観力をもつ発想が大変にその時代を超え
た画期的かつ独創的ものになったのである。何事も先人のし
たことのない深い発想をもってcreative な仕事をするのにはそ
れだけの深い洞察力を持って考えなければいけなのである。
パストゥールも言っているように[深い考えをする人に運命が
恵まれる」ということではないだろうか。



Haber法の工業化:このHaber法によるアンモニア合成反応は 
BASFの手に移ったのであるが、それを実際に工業化するまで
は大変な努力を必要とした。BASF は過去においてインディゴ
―などで大きな成功を収めて世界でもトップの企業であった
が、このアンモニア合成を実際に工業化することは最初強く懐
疑的な人が少なくなかった。いろいろな問題がそれまで考えた
こともなかったことだったからである。その点ではそれを乗り越
えた Bosch の功績が大きく作用している。彼は大変に優れた
技術者で数多くの困難を乗り越えて化学産業に初めて画期的
な改革をもたらし、その功によって「高圧化学的方法の発明と
開発』という題で1931年にノーベル化学賞を受けている。アン
モニア合成に開発された技術が例えばメチルアルコールの合
成など高圧化学的方法などにそれだけの大きな影響をあとあ
とまでに残したのである。ここに高圧化学的方法というのは当
時は高圧装置としては空気の液化などに用いる常温で200気
圧までのものでしかなかった。反応塔を作ることだけについて
も反応温度まで上げながら高圧下で反応を進めることが出来
ないと、折角の「ハーバー法」も工業的に実現しないからであ
る。

  Boschは1910年の初めに直径70mm、厚さ30mm、長さ1メ
ートルの鋼鉄を用い、スエ―デン産の磁鉄鉱を触媒として外
側からニッケル線で加熱して100気圧、870Kで運転したところ
80時間で爆発をしてしまった。これでは工業的に用いることが
出来ない。このことは初めは鉄とアンモニアが反応して鉄の窒
化物が出来たためではないかと疑われたのだが、よく調べて
見ると、鋼鉄の中の炭素が反応気体の水素と反応して脱炭素
反応が進み、さらには鉄の中に水素が溶解して硬くてもろい合
金に変化した結果であることが分かったのである。仕方なく鋼
鉄以外のものを探しても、また加熱の仕方を内部式にしてもう
まく行かない。反応装置の内側に銀の薄幕を張っても熱膨張
係数の違いなどでうまく行かない。Boschは結局反応塔の内側
には炭素の含量の少ない軟鉄を用い、内側でもろい水素化物
が出来てもその外側からしっかりとした鋼鉄で抑える工夫をし
たし、のちにはさらに外側で抑え込む鋼鉄に強度の影響の少
ない範囲で小さい穴をあけて少しの水素が軟鉄を通過して拡
散して来ても鋼鉄は常圧で水素に接するので害を受けないで
済むようにしたのである。反応塔だけでもなく、高圧化で洩り
のない循環ポンプを工夫したり、反応気体の調整など反応過
程に伴う多くの問題を解決して行ったのである。このようにして
これらの技術は化学産業において画期的な改革となって発展
しただけにノーベル賞に値したのである。その意味で工業化の
成功の重要性も含めて「ハーバー法」は「ハーバー・ボッシュの
方法」と呼ばれるようになっているのである。

  いわゆる「ハーバー・ボッシュの方法」の陰に重要な役割を
果たしたのは Alvin Mittaschによる触媒の研究である。化学工
業の殆どの反応が触媒を用いて進み、できるだけの高い選択
制と活性を必要とするだけに、触媒の開発的研究は極めて重
要である。BASFの中でそれを担当したのが Mittasch である。
その頃までは触媒作用についての一般的な知識は大変に乏
しかった。暗中模索的に試みられていただけであった。
Mittasch は一説によると20組もの触媒反応装置を用い、1919
年までに4,000組の触媒の組み合わせで1万回に及ぶ実験をし
たという。これらの研究を通して触媒作用とはいかなる現象で
あるかという基本的な問題が解明されて行った。例えばスエ―
デン産の磁鉄鉱が比較的に優れた触媒であっても、純鉄では
余りよくない、微量のいわゆる「助触媒」が加わることによって
その活性が格段によくなったり、また逆のごく微量のものが活
性を殺すいわゆる「被毒現象」があったり、熱その他による活
性の影響など触媒に関する各種の新しい現象が解明されて行
ったのである。結果的には鉄に少量のアルミナと酸化カリウム
を添加した触媒が長く使われている。

  

  このような開発を進めた結果としてBASFは開発を始めてか
ら2年余りにして1913年に Oppau とLeuna でアンモニアを作り
だし、最初は第一次世界大戦のために、平和になってからは
土地の改良で実り多い農業が育ったのである。このアンモニ
ア合成で開発された原理は他の重要な工業的な過程にも応
用され、高圧下でのメチルアルコールの合成など Alvin 
Mittasch により可能になったし、Bergius 法による石炭の水素
化も実現したのである。、



その後のHaber: Haberは Karlsruhe における成功のお蔭もあ
って1912年には Berlin に新しく設置された研究所、 Kaiser 
Wilhelm Institut fuer physikalische Chemie、 の所長になってい
る。それは第一次世界大戦の少し前の頃で物理化学の分野
は進歩を遂げ、それまでの古典的な物理化学は過去のものに
なって行った。化学平衡に関する熱力学的問題はある程度 
Nernst の理論の結論に結び付き、エネルギーに関する量子概
念が姿を現し始め、原子論が姿を現してきた。その結果として
化学平衡に関しては化学定数の計算で導き出され、統計的な
方法で計算が可能になって近似がよくなって来た。Haberの研
究が原子論的な問題と結びついて興味深く発展したのであ
る。Haberが追及した問題は正に彼の時代の問題自身でもあ
ったのである。Haberもそれまでの科学に強くこだわることもな
く、若い連中と興味を共にしていた。従って彼の化学的仕事は
彼が年長になった頃も物理化学の発展に反映している。つま
り彼の科学的成功は彼自身の発展と当時に化学の基本的な
発展とが結び付いたのである。



  しかし、こうして第一次世界他薦が始まったのである。
Haberも戦時中は Ministry of War に配属したのである。毒ガス
やそれに対する防御など、150の大学、2000人の助手などを抱
え、彼自身大変な激職で健康に差し支えるほどであった。
1918年にドイツが戦争に負け、経済的に崩壊はしたが、Haber
は直ぐには純粋な研究活動には戻れなかった。彼は敗れた国
を如何にして復興させるかということで、国の組織的技術的活
動を回復すべく大変な努力を傾けた。一方ではアンモニア合
成の偉大な工業的成功、戦時中での活動、それに1918年での
ノーベル賞受賞などで彼は大変に尊敬もされ、引っ張りだこに
もなった。



  しかし彼は戦後の第一の仕事として彼の研究所を立て直す
ことであった。まず彼はトップレベルの人材を研究員として集
め数年にして世界でも最も優れた研究所の一つにまでになっ
た。異なった分野についても彼が選び、完全に独立的に運営
をされて行った。研究所からは続々とますます多くの優れた研
究が発表されて行って立派に作り上げられて行ったのである。
James Franck や彼の仲間による原子の電子衝撃に関する基
礎研究も戦後ほどなく発表された。これは化学発光の本質に
関わるもので光化学の初期課程の本性を明らかにする仕事で
ある。分子に電子を衝突させる時に最初にできるものについ
ても彼の研究室から多くのデータが出て来て、Haberの死後も
この分野の化学は大きく育っている。分子間の衝突に際して
見られる新しい吸収スペクトルもX線吸収、紫外領域で実験的
に初めて観察されたし、パラ水素発見によって量子力学の予
言も確認されている。シリコンの興味ある結合などコロイド科
学の発展、などなど数多くの独創的な仕事が生まれ、例えば
2007年には所長の G. Ertl が固体触媒表面における反応過程
の研究でノーベル化学賞を受賞している。

 Haber は所長として研究所の研究に必要な資金集めに精を
出し資料や運営上の求められることに大変な努力をし貢献を
した。研究所の優れた尊厳を示すべく各種の活動にも打ち込
んでいた。Institute の全員を集めて2週間おきにコロキウムを
開いたが彼がいかに優れた指導者として恵まれた才能がある
かをよく示していた。コロキウムの内容も素晴らしかっただけで
なく、コロキウムにおいて講演の内容がよくはっきりせず、余り
にも特殊な話題に絞られていた時でも、また講演の仕方が上
手でなく分かり難い時でも、彼が2、3の短いコメント発言を付け
加えるだけで、全部の聴衆が明らかにその内容を正しく理解を
しその本質を納得したものであるという。長い講演もこの彼の
短いまとめとしての発言によって全ての人が納得しその本質を
理解したとのことである。このコロキウムではその提供される
内容やレベルについてもよく配慮をされていた。彼が所長とし
て所員各自に自由を与えながら全体的に知的調整をなし、ま
とめて行った腕前は正に信じられないほどであったという。

1933年になってナチ政府ができ彼はユダヤ人として次の言葉
を残して Institute を去ったのである。 『皆さんの前で私は私
の科学的経歴を閉じることに致します。私は民族としての問題
ではなく職業としての問題としてです。学問をする者として39年
間過ごしてまいりましたが、私は65歳になりますし今更自分の
考えを変えることはありません。私はドイツを故国としての誇り
を持ちながら一生の間尽くしてまいりましたがここで辞めさせて
頂きます。』



  彼はその後すぐにドイツを離れ、英国の友人の招待で 
Cambridge に小さい実験室を設けた。しかし彼はイギリスに居
つくことなく常に故国を思い続け、健康を害した。彼はイギリス
の冬を嫌って数ヶ月にしてスイスに移ったが、精神的にも崩れ
ながら彼が生涯を捧げて尽くした故国から見捨てられた一人と
して1934年の1月29日に亡くなっている。Haberは大変に力強く
格別な人材であった。彼を知る人は彼の人柄を生涯忘れるこ
とはできないという。1952年の12月9日に Kaiser Wilhelm 
Institut fuer physikalische Chemie und Elektrochemie の儀式
が執り行われ、その板にに次の文が刻まれている。『Haber は
窒素と水素を結合させる過程の優れた発見者として歴史に残
るが、この反応は空気中の窒素を工業的に固定するもので、
ノーベル賞の受賞理由にも、空気からパンを作り、勝利をもた
らした人で、農業を改良し、人類の幸せに尽くした格別に重要
な人である』といっており、彼の故国や全ての人類のために尽
くしたのである。



あとがき: Haber の成功は優れた触媒の発見に負うところが
多いし、その後の工業化学の発展も工業的触媒の開発に関す
るMittasch らの大変な努力のたまものである。しかしその当時
は何故触媒作用が生まれるのか全く不明のままで、優れた触
媒を探すには「やってみる」しかなく、全くの[暗中模索]の時代
であった。その後LangmuirやTaylorの貢献や表面構造を調べ
る手法も出て、1930年前後になって。触媒の表面における化
学吸着が広く研究がなされ始められ、反応の速度式も調べ始
められて来て、例えばLangmuir-Hinshelwood の機構など触媒
表面での反応の進み方が討論されて来た。アンモニア合成触
媒でも反応速度式を基に、窒素の吸着、脱離が律速段階とし
てTemkin とPyzhevの反応機構が提出されている。然しその頃
は触媒自身は常にblack-boxの中に閉じ込められたままで、そ
のblack-boxの入り口と出口での情報を基にしてblack-boxの
中でどのようなことが起こっているかについて外側から推論し
ているだけであったのである。

1960年前後になってその様子は基本的に大きく変化をした。ま
ず田丸謙二が初めて触媒反応が進行している最中の触媒表
面の吸着状態を測定した。Black-boxの中を反応中に初めて
覗いて調べてみたのである。例えばタングステンによるアンモ
ニアの分解反応は反応速度がアンモニアの分圧にあまり関係
しない「ゼロ次反応」であったので、反応中はアンモニアが触
媒表面に飽和吸着をしている、と教科書にも書いてあったが、
実際に直接反応中の吸着を測ってみると、水素はいかなる形
でも吸着されていないで、反応はタングステン表面層での窒化
物層の生成と分解の動的バランスで進んでいることが明らか
になった。触媒の教科書の書き換えが始まる時代になったの
である。更に大事なことは触媒表面に吸着している吸着種を
種々な実験方法で直接調べることが出来るようになって来たこ
とである。赤外分光法やさらには電子分光法、EXAFSなどなど
である。ただ、触媒表面に吸着しているものが分かっても、触
媒反応がどのように進むのかは分からない。触媒表面に吸着
しているからといってもそれが反応に関与してその中間体であ
るとは限らないからである。

大変に画期的進歩は触媒反応が進んでいる最中に触媒表面
に何がどんな形で吸着しているのかについて直接調べるだけ
でなく、反応中に吸着しているものそれぞれが反応が進んで
いる最中に如何なる動的挙動をしているかを直接に調べるし
ことである。1960年のパリーでの国際触媒学会でSir Hugh 
Taylorがこの反応中での触媒表面の挙動を直接調べる田丸が
初めて開発した「in-situ dynamic characterization の方法」で、
例えば「isotope jump method」と言って、反応が進んでいる条
件下で反応物の一つに同位元素を含ませて印をつけ、それが
反応を進めつつある触媒の表面でどのようにダイナミックに移
り変わって行き、そして最後に反応生成物に現われて行くかを
反応の現場で調べることである。このようにして触媒反応の機
構の調べ方の基本が開発されこの分野は初めて本当の「科
学」になったのである。この新しい測定方法により、やることな
すこと全て新しい発見であり、その後もこの新しい開発の線に
沿って何百もの研究報告がなされている。

さらには触媒としていわゆる「素姓の分かった表面」(例えば金
属単結晶の分かって結晶面や、それにstep を加えたりしたも
のなど)まで調べられるようになり、STMなどの優れた手法も
出てきた。このように触媒反応という暗中模索の現象が1960
年を境にして、触媒化学が表面科学と結びついて本当の「科
学」になって来たのである。それらをきっかけとして、代表して
2007年にはHaber Institut の所長だったG.Ertl 教授がノーベ
ル化学賞を受賞したのである。

  

 e.g. Catalytic Ammonia Synthesis Fundamentals and Practice: 
edited by J.R.Jennings, Plenum Press (New York) 1991 :

D. Charles, Master Mind:The rise and fall of Fritz Haber, New 
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Rossignol, Z. ElektroChem.,14, 513 (1908)

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Tamaru, Appl. Catal. A, General, 151, 167 (1987)

トーマス・ヘイガー:大気を変える錬金術:ハーバー、ボッシュ
と化学の世紀:みすず書房、2010:T. Hager, The Alchemy of 
Air:, Harmony Books Inc., 2008







 1924年 Haber夫妻が訪日し、鎌倉の田丸家を訪れた時の
写真。田丸謙二は母の腕の中にいる。かれが Haberに会った
証拠写真になっている。







  Haber の自筆の添え書きがある。









現在のHaber Institutの設立された頃(1913年)の写真で、左よ
りHerbert Freundlich(著名なコロイド化学者),田丸節郎,Haber, 
Oliver Herzog Freundlich(Fiber研所長) 後ろは当時の研究
所。この研究所は2011年に創立百年のお祝いをする。





 以上は今度表面科学会30周年記念に出版される『現代表
面科学シリーズ」に頼まれてアンモニア合成について、田丸家
父子の業績、写真も含めて書いたものです。その編集委員会
からの書評が届きました。『大変迫力のある解説をどうも有難
うございました。今回の原稿をお読みして、 Haber のどこ が他
の人に比べて優れていたのかが初めてよく解りました。多くの
読者にとってもとても参考になる印象深い章になると思いま
す。また、その後の物理化学的手法による触媒研究の発展に
ついても言及下さり、今日の表面科学的アプローチにつなが
る道筋がよく解りました』とありました。亡父が「死ぬほど働い
て」 アンモニア合成に打ち込んだお蔭で[何十億もの人が飢
餓から救われた」と言われる話でもあります。

                        (2011年2月10日)





   トーマス・ヘイガ―著「大気を変える錬金術」(2010年5月)
より: 1900年に世界の人口は16億5千万人であったが、現在
は68億5千万人になっている。つまり1世紀の間に4倍になっ
ている。もしすべての人間が菜食で1800年代最高の技術を
駆使し、耕されている土地全てで作物を育てれば、地上で40
億人を養える。理論的には少なくとも残りの20億人は飢えてし
まうのだ。これは人口が食糧供給を追い越した時の必然的結
果である。然し現実にはアンモニア合成のお蔭で、食糧の方
はその間大体7倍に増えている。「空気からパンが作られなか
ったら」、20〜30億人の飢餓が生まれたはずだったのであ
る。

  年産1億5千万トンのアンモニアの8割が肥料の原料として
使われたとすると、アンモニアに換算して毎年1億2千万トンも
の化学肥料が大地に施されており、その20〜50パーセントが
河川や湖沼に流され海にそそがれることになっている。

                       (2011年5月20日)



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